今回のいい寺は・・・
「五条大橋から」です♪
京都東インターから市内に入ると、五条大橋の《弁慶と牛若丸》が
目に入ります
鮮やかな身のこなしで弁慶を翻弄する牛若丸
後に源平合戦、吉野から平泉へと続く運命の出逢いですね。
端午の節句のお祝いには《弁慶と牛若丸》《金太郎》《桃太郎》の
人形が贈られます。
この姿は、そのまま五月人形になりますね。
強さ、勇ましさ、たくましさ、正しさを表した題材が五月人形と
なります
源平合戦の牛若丸・源義経の活躍は、その象徴的なものでしょう。
源平の合戦は平家物語、吾妻鏡に記されて能や歌舞伎で演じられ
琵琶法師によって語られてきました。
琵琶法師による諸行無常を説く語りは、大衆の心をつかみ
平家琵琶が世に広まったそうです。
私達が源平の武将の活躍よりも、敗走する平家に心を打たれるのは
琵琶法師による独特な語り方からでしょうか
中でも一の谷の戦いで、熊谷次郎直実に討たれた平敦盛の場面は
悲話としてよく知られていますね
平敦盛は元服してまもない享年16の短い命でいたが、
平家の武将として潔い最期でした
その姿に涙した熊谷次郎直実は出家して「蓮生」と名乗り、
敦盛の菩提を弔ったそうです
五条大橋の渡り口には《弁慶と牛若丸》が、
そして畔には『扇塚』があります。
この『扇塚』にも物語があります。
平敦盛には室(妻)がいました。
元服して直ぐに平家は都落ちしたので、二人が一緒にいた
時期は僅かだったのでしょう
室は得度して、「蓮華院尼」と称して供養の日々を送りました。
その傍らで生活の糧として、この地で寺僧と共に扇を作った
そうです。
戦の陰に残された女性の悲しみと、生きていかなければならない
現実がありますね!
後に、この由緒によって扇工がこの地に集まり、扇の名産地と
なりました。
『扇塚』は、その歴史を顕す碑だそうです
今でも五条通りには扇の問屋があります。
表札の上に扇のモチーフ・・・
一見して問屋さんだと分かりますね
京都の扇は《京扇子》として有名です。
用途によって飾り扇、舞扇、お祝い扇と種類があります。
京都の土産に扇子を求める方も多いですね
街中にも扇・扇子の専門店がありました。
華やかな扇子は目を引きますね
扇・扇子は茶道、舞踊、落語、僧侶と色々な職種で使われます。
京都では特に需要がありそうですね。
敦盛の悲話が時を経て、鮮やかな《京扇子》になったと思うと
歴史の奥深さを感じます。
河原町には、もっと目を引くものがありました。
『からふね屋珈琲』の中に飾られた数々のパフェです
これら全てがメニューの中にあり注文できます。
手前の大きなパフェは予約が必要で30人前だそうです
歴史の中で育んだ文化と、斬新な考えが共存する街ですね。
平安京の羅城門をコンセプトに設計された京都駅のように
京都は歴史を大切にしながらも変化をしています。
五条大橋の《弁慶と牛若丸》
私達の心を和ませる可愛らしさがあります
現代を生きる私達には勇ましさよりも優しさを持って
接することが大切ですね♪
※吉野・義経についてはこちら↓
e-tera.net/Entry/99/
※吉野の桜についてはこちら↓
e-tera.net/Entry/98/
『嵐山大河内山荘を歩く』です♪
大河内伝次郎は大正・昭和の役者で
サイレント映画の大スターです

当たり役は、なんと言っても「丹下左膳」です。
大河内伝次郎が6千坪の土地に30年の歳月を
かけて造営した別荘です

東映時代劇など晩年の出資で稼いだギャラは、
大半が造営に注ぎ込まれました

神殿造りのような立派な造りです

茅葺の屋根で品のある建物ですね。
建物の良さは屋根の造りで決まるみたいです

山荘からの眺めです

京都市内が一望できます!!
ここは、藤原定家が小倉百人一首の選歌をした
小倉山の山麓にあります。
大河内伝次郎は、母の影響で仏教に帰依して最初に
この「持仏堂」を建てました

そして、34歳の若さで山荘の造営に取り掛かったそうです。
「持仏堂」では、仏教書を紐解き『南無阿弥陀仏』の念仏を
唱え坐禅をして心を整えたそうです。
「持仏堂」は「坐禅堂」とも言いました。
多宝塔です。
山荘の至る所に仏教美術品が置いてありました。
まだ樹木が芽を吹いていないので、枝葉で隠れることなく
しっかりと見ることができます

これが、冬の京都の楽しみでしょうか

あちらこちらで、仏さんに会いました。
大河内伝次郎が「持仏堂」を造営する事を決意したのは、
27歳で遭遇した関東大震災きっかけだったそうです

震災のショックから心の支えを必要としたのでしょう。
関東大震災が人生の転機だったかもしれませんね。
山荘内の庭園を巡りながらふと口ずさんでいました。
曲がりくねった道の先に 待っている 幾つもの小さな光
まだ遠くて見えなくても 一歩ずつ
ただそれだけを信じてゆこう
そして、ふと思いました。
大河内伝次郎が遺したものは、地位や名誉ではなく・・・
この道だったのかもしれない、と思いました。
見晴らしのよい展望所からの下り道です。
石畳の道が色々と変化していきます。
道は一本ですが、次から次へと道の形が変わって
いきました。
無声映画の大スターとして活躍し、後半は名脇役として
役者一筋に全うした大河内伝次郎の人生がこの道に
表されているような気がしました

そして、大河内伝次郎が山荘を訪れた人に
「世の中が色々と変化としても、
道を踏み外さないように歩んでください」
と教えているような気がしました。
仏教の信者として、人生の歩み方を伝える為に、
この山荘を遺したのではないでしょうか

彼には彼を支えた仲間達がいましたね。
それぞれの仕事に誇りを持っているのでしょう。
皆さんいい顔をしています

大河内伝次郎は、この支えによってスターとして、
そして名脇役として活躍をしました。
大河内伝次郎、長谷川等伯、辻口パティシエ・・・
それぞれ歩む道は違いますが、人生の転機がある中で
ひとつの道を全うするという意味では共通するところが
ありますね。
これからも、色んな方の人物像を探りながら
【いい寺】を探して行きます

《松林図》に支えられた辻口パティシエです♪
辻口パティシエがNHK日曜美術館で長谷川等伯の《松林図》
について語っていました。
辻口さんは長谷川等伯と同じ石川県七尾の出身です。
初めて《松林図》に出会った時、能登の海岸の松林だと直感で
分かったそうです

辻口さんは、七尾の和菓子店の三代目として生まれましたが、
18歳のときにお店が倒産してしまいました

その後、洋菓子店としてもう一度再建したいという強い信念で
都内のフランス菓子店やフランスのパティスリー・ベルタンで
修行を重ねたそうです。
そして世界大会で優勝する事が【夢を叶える道】だと確信し、
5度の世界大会に日本代表として挑戦しました

「クープ・ド・モンド(ワールドカップ)」個人優勝を機に店を任される
話が舞い込んできました。
洋菓子店『モンサンクレール』開店へと順調に歩む事ができましたが、
お店の売上は思うようにはいかなかったそうです。
世界一の称号だけでは道は開けない事を知りました。
長谷川等伯は世の中に自分の名を示すために大徳寺三玄院の
門をくぐり、住職が留守中に襖絵を描くという行動に出て世間の
脚光を浴びました


辻口さんは洋菓子店『モンサンクレール』を世間に知ってもらうために
フジテレビの「料理の鉄人」で挑戦したそうです

パティシエとして初めて《鉄人》に勝利した事が話題となり、
お店を軌道に乗せることが出来ました

そして自分の店を持ちたいという夢は現実となり、2年後に
『モンサンクレール』のオーナーパティシエとなりました。
今では10のブランドを持つだけでなく、ケーキ作り教室を
開いたり社会活動にも取り組んでいますね

能登の震災時には自らたくさんのケーキを持参して被災者の
慰問に訪れました

辻口さんは、幼い頃からの自分を振り返りこう話していました。
「家を失い家族が無くなってしまい、子供の頃に色々なものを
無くしたから、その悲しみを力に変えて進んできた。」
長谷川等伯は祥雲寺の障壁画を完成させた直後に、
息子久蔵の死という絶望を味わいました。
その絶望の中で描いた作品が《松林図》です。
風雪に耐えながら立ち尽くす松と、霧の立ち込める余白。。。
華やかでない現実と【余白の美】・・・
それは辻口さんに安らぎと勇気を与えてくれるそうです。
余白をつくるのは難しいですよね。
色々描きたくなってしまいます・・・
それをあえて余白を作る事で、その余白の中で想像する事ができますね。
濃淡の使い方に迷いが無く、この余白が辻口さんの
心を映し出す鏡となっているそうです。
『自身の作品は形は無くなるが味が残る、心に残る。
そこが松林屏風の余白に通じる。』と話していました。
また祥雲寺の障壁画と《松林図》を描いた長谷川等伯と
自分の人生を重ね合わすそうです。
辻口さんが世界大会に挑戦した作品は飴細工の技法も
取り入れた祥雲寺の障壁画のような華やかなものでした

そして、長谷川等伯が華やかな絵の技法を捨てて、
水墨画《松林図》を描いたように【和の心を融合】させて
垣根を取り払った作品を目指しているそうです

辻口さんにとって《松林図》が心の支えであり
人生最大のライバルでもあるそうです。
洋菓子『セラヴィ』です。
この真っ白な『セラヴィ』の表面には水滴のような飾りが
ついています。
私は茶道具の水指の蓋にかけた水を連想しました♪
辻口さんは、茶道の武者小路千家の若宗匠とも親交を深めて
いるそうです

次は、心を動かすお菓子の力です

長谷川等伯の華やかな障壁画についてはこちらを↓
e-tera.net/Entry/82/
長谷川等伯・水墨画の世界です。
長谷川等伯は祥雲寺の障壁画の依頼を受けて、長谷川派として
順風満帆の船出をするはずでした

しかし、そこには良き理解者である千利休と、跡を託すはずだった
息子・久蔵との永遠の別れがまっていました

長谷川等伯は、千利休によって大徳寺に出入りする機会を
与えられました

また、山内・三玄院の襖に絵を描いたのも千利休からの
助言があったかもしれませんね。
等伯の支援者である千利休と共に頑張ってきた跡継ぎ久蔵との
死別は、これまでの全てを失う程のショックだったのでしょう

大徳寺には天下に名の知れた牧谿最大の傑作《観音猿鶴図》
があります。
牧谿の絵は、細かい描写だけでなく、そこに湿度さえ感じさせます。
墨だけで空間を表現する素晴らしい絵ですね。
この絵は、長谷川等伯に新たな道を示しました。
ところで《観音猿鶴図》には逸話があります

祥雲寺の本寺【妙心寺】と【大徳寺】に元の所有者からこんな
提案がありました。
遺産分けに《観音猿鶴図》と《50貫分の現金》のどちらかを
選ぶようにと話がありました

そして、妙心寺は現金を選び三門を造る資金にあてました

《観音猿鶴図》はというと…大徳寺の所有となりました。
おかげで、大徳寺に出入りしていた長谷川等伯はこの絵を
拝見する事が出来たのではないでしょうか・・・
《観音猿鶴図》の鶴の絵です。
長谷川等伯は《竹鶴図屏風》で牧谿のこの鶴を模した作品を
残しています

模写をする中で牧谿の絵の本質的すごさを知ったそうです

《観音猿鶴図》の猿の絵です

墨だけで猿のフサフサ感が出ていますね。
こちらは長谷川等伯の描いた猿です。
牧谿を手本にした事がうかがえますね。
猿の毛のフサフサ感と対照的に顔は単純に描かれています。
背景も白くシンプルですね。
そしてこちらが長谷川等伯の描いた《松林図》です。
(絵が小さいのでクリックし拡大して見てください)
長谷川等伯が離別の悲しみの中で水墨画へと傾倒していく転機と
なった作品です

この松の枝に注目してください

牧谿のような大気と湿度を感じる絵ではありません。
その代わりに無駄を排したこの絵には、【濃く描かれた松】に
『力強さ』を、後ろの【薄く描かれた松】に『寂しさや弱々しさ』を
感じますね。
障壁画を完成させた自信と、息子を亡くした寂しさが《松林図》に
映し出されているようで、まさに長谷川等伯自身を松で表しているようです。
この松林は、故郷七尾の海岸の松といわれています。
今、七尾出身でこの《松林図》と向き合いながら活躍する
パティシエがみえます。
次はパティシエと《松林図》について・・・
美味しいケーキ屋さんへ行ってきます

長谷川等伯についてはコチラ↓
e-tera.net/Entry/82/
祥雲寺の障壁画を描いた長谷川等伯についてです★
長谷川等伯は能登半島・七尾の出身です。
七尾は、能登畠山氏が拠点した町で、多くの文化人が京・堺から
招かれていました。
当時は、京文化を凌ぐ七尾文化の黄金期だったそうです

32歳で上洛してから菩提寺の関係で日蓮宗本山・本法寺に
寄宿して京都での活動を始めました。
最初は日蓮宗の信徒の支援で仕事を請けていました。
本法寺の向かいには、茶道・裏千家の家元『今日庵』が
あります。
千家初代・千利休は堺の出身です。
堺の町は日蓮宗の関係が深く、多くの信徒がいました。
長谷川等伯を評価した本法寺の日通上人も堺の出身です。
その関係から、千利休と出会ったのではないでしょうか・・・
千利休は豊臣秀吉の茶の湯の指導者として桃山文化の中心に
いました

そして、長谷川等伯に多大な影響を与えました。
当時は、狩野派の絵師が大きな力を持っていました。
その頂点に狩野永徳がいました。
長谷川等伯は狩野派の門下でも働き、狩野派から牧谿(もっけい)
の水墨画まで色々な技法を習得したそうです。
力を得た長谷川等伯は、世の中に自分の名を示すため、
ある行動にでました。
大徳寺三玄院に入り込み襖に絵を描いたのです。
当時の大徳寺の住職は襖に絵を描く事を禁じていました

留守中に勝手に絵を描くという大きな賭けに出たのです。
覚悟の行動でしたが、結果的には評判となり、仕事の依頼が
増えたそうです。
ついに大きな仕事が舞い込んできました

祥雲寺の障壁画を描く事になったのです。
依頼の理由は、前年に狩野永徳が亡くなり狩野派が
混乱していた事と、千利休の推薦があったからだそうです。
狩野派に対抗できる千載一遇の大チャンスに、長谷川等伯は
息子久蔵とともに狩野派にはない叙情的な自然表現を試み、
見事に仕事を成し遂げました

この仕事により長谷川派として大きく飛躍するはずでした。
しかし、そこに悲劇が訪れました。
長谷川等伯の支援者である千利休が切腹し、後継者である
等伯の息子久蔵も急死してしまったのです。
このことが、長谷川等伯にとって大きな転換期となってしまいました。
狩野派は永徳の孫・探幽が跡を継いで、妙心寺の法堂の龍を
描くなど、大いに活躍していきました。
次は悲劇の中から描かれた『松林図』の世界を見てみます

人と人を、人と地域をつないでいきたい♡
地域に根差したお寺の発掘も
いい町.netで人がつながっていったら嬉しいな!!