忍者ブログ
MASTER →  ADMIN / NEW ENTRY / COMMENT
皆様のご無事、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回のいい寺は・・・
戦乱の世に散った細川ガラシャです。


大阪城の南側、玉造に《大阪カテドラル・聖マリア大聖堂》が
あります。
元細川家の屋敷内に建てられた教会です
ここは細川ガラシャ(玉)に関係した教会です。


DSC_1594.JPG

ガラシャは明智光秀の三女です。
織田信長の勧めによって細川家に嫁ぎ、細川忠興の正室
なりました。
本名は、細川玉(珠)です。

二人は仲の良い夫婦で二人の子に恵まれましたが、
父・明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ってしまいました。

その日から、逆臣(謀反人)の娘として苦しい日々が始まりました。
明智家以来の小侍従や細川家遠縁の侍女を伴って、丹後の
山奥に幽閉されてしまいました

「身を隠す 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く」
細川玉が幽閉中に詠んだ歌です。

※細川忠興は、逆臣の娘として殺されないように幽閉の名目で
匿ったそうです。

時代は違っても、被害者の家族も加害者の家族にしても
苦しみは大変なものですね。
加害者の家族は、土地を追われるように離れていくことも…



DSC_1617.jpg

越中井です。
大阪城の近く越中町にあった細川家屋敷跡です。
細川玉は二年後に豊臣秀吉の取り成しで大阪屋敷に
戻りました。
しかし、細川忠興は玉が外部と接触することを禁じた為
生活は幽閉時と変わらなかったようです。

豊臣秀吉によって許されても、身内によって監禁状態に
されていては、辛いですよね。
そして愛した夫には側室ができて、心の支えも失ってしまいました。
側近の者は、一生懸命に彼女を支えて励ましたのでしょう。



DSC_1677.jpg

細川玉の侍女頭は、細川家の遠縁で洗礼を受けていた
清原枝賢の娘マリヤ(洗礼名)でした。
マリヤによって細川玉は、キリストの教えに触れて心が
惹かれていきました。

どんなときでも神は見捨てずにいてくれますよ
キリスト教が彼女にとって救いの手となったのでしょう
家族にしても教えにしても、私たちは支えがないと生きていけませんね。

「生きて死ぬ智慧」の著者・柳沢桂子さんも病気の苦しみの
なかで般若心経と出会い、
般若心経は雨に濡れた私にさす傘でなく、雨雲を散らしてくれて
 私をカラッと晴れた気持ちにさせてくれました

と述べていました。


DSC_1599.JPG


監禁状態であった細川玉は、夫・細川忠興が豊臣秀吉の
九州征伐について出陣している間に、密かに教会へ
教えを聞きに行きました

苦しみの闇でこそ人の光は美しく輝く、
 そして感謝の気持ちで受け入れる


神父の言葉に感銘を受けた細川玉は、その場で洗礼を
受けることを懇願しましたが、身分を隠していたので
願いが叶いませんでした

その後、侍女達を教会に通わせて洗礼を受けさせ、
毎日一緒に祈りを捧げました
いつしか洗礼をと願っていたのでしょうが、九州征伐中の
豊臣秀吉が《バテレン追放令)》を出したため、教会で洗礼を
受けることはできなくなりました。



DSC_1610.JPG

そこでイエズス会神父の計らいで、侍女頭マリヤの手に
よって屋敷内で洗礼を受けることができました。

洗礼名《ガラシャ》(神の恵み)
苦しみすら感謝の気持ちで受け入れるキリスト教によって救われる
細川玉は《細川ガラシャ》となって謙虚で明るい性格に
なったそうです。

しかし、喜びはつかの間、すぐに悲劇が訪れました。
大名のキリスト教信仰が禁止されるなか、細川忠興
侍女達のキリスト教改宗を知ったのです
激怒した細川忠興は、改宗した侍女の鼻を削ぎ、屋敷から
追い出してしまいました。

細川ガラシャの苦難の始まりだったのでしょう。
そして歴史は関が原の合戦へと向かっていきました。



DSC_1606.jpg

細川忠興は東軍に付いたため、石田三成が細川ガラシャを人質に
取ろうとしました。
しかし、細川ガラシャはそれを拒み、家臣に自分を討つように命じました。

ちりぬべき 時知りてこそ、世の中の 花も花なれ 人も人なれ

本能寺の変で逆臣の娘となり、キリシタン禁止令が出されたなかで、
ガラシャを支えた侍女達を失い、人質となることは到底受け入れられる
ことではなかったのでしょう。

今が神のもとに行く時とさとって、命の果てる道を選んだ
思いました。
散り際の妙というものでしょうか。
細川ガラシャによって細川家は守られました。



DSC_1607.jpg

焼け落ちた屋敷からオルガンティノ神父がガラシャの骨を拾い、
堺のキリシタン墓地に埋葬されました。
後に細川忠興は神父に依頼して教会葬を行い、キリスト教を
受け入れなかった細川忠興も葬儀に参加したそうです。

その後、遺骨は大阪の宗禅寺へ改葬され、墓所は何箇所かに
造られました。
そのひとつが京都 大徳寺・高桐院ですね。


DSC_1615.jpg

玉造の聖マリア大聖堂には、細川ガラシャを慕う方が訪れて
いました。
細川ガラシャの人生と向き合い、みなさんそれぞれに思うところが
あるのでしょうね。

次は、再び大徳寺・高桐院を訪れてみます

拍手

PR
今回のいい寺は・・・
徳川家と真田幸村です。


DSC_1561.JPG

今は市民の憩いの場として整備された茶臼山周辺♪
のどかな風景で、ここが合戦の舞台だったとは
思えませんね



DSC_1566.jpg

茶臼山も深い樹木に覆われて、当時を偲ぶものは掲示板と
六問銭》(ろくもんせん)の旗があるだけでした



DSC_1568.jpg

《六問銭》は真田家の家紋です。
この六問銭、徳川家康・秀忠親子は痛い目にあいましたね。

関ヶ原の合戦では、徳川秀忠が信州上田で真田昌幸・幸村
親子の作戦で足止めされ、徳川家本隊が合戦に遅延して
しまいました

関ヶ原の合戦は、徳川家康を討とうと石田三成が豊臣家の
家臣に号令を掛けたのが始まりでした。
しかし、人望が無かったのか、徳川方につく家臣も多かった
ですね。
徳川家康はこの戦に勝って豊臣家を追い詰めようと考えた
のでしょうが、徳川家本隊の遅延により西軍・石田三成対
東軍・反石田三成の豊臣家家臣の内輪もの形になって
しまいました。

徳川秀忠は、父家康にそうとうお灸を据えられたそうです



DSC_1286.JPG

そこで、大阪冬・夏の陣で徳川秀忠は、関ヶ原の合戦
徳川家康が本陣をかまえた大垣市・岡山と同じ地名の
場所を探し出しました
現在の生野区・岡山古墳を本陣としたのです。
「今度こそ名誉挽回!」という気持ちの表れでしょうね。


DSC_1262.jpg

地元の銘菓《御勝山》です。
大阪夏の陣で勝利した後、岡山(おかやま)は徳川秀忠の
命で、《御勝山(おかちやま)》と地名が変わりました。

現在この地域は生野区勝山町になっています。
大垣市の岡山も徳川家康によって「御勝山」と地名が
変わりました。


DSC_1667.jpg

大阪夏の陣の徳川家康です。
古文書を調べると茶臼山も「御勝山」と記されています。
冬の陣では徳川家康の本陣となった茶臼山は、夏の陣では
真田幸村の陣となりました。



DSC_1567.jpg

真田幸村は冬の陣では大阪城の南側に攻撃の拠点となる
真田丸を築いて徳川方を打ち負かしました

夏の陣では、大阪城の堀が埋められて防御力が
無くなったので城を出て茶臼山に陣をかまえました。



DSC_1653.jpg

勇猛果敢に敵を攻める真田隊。
ただ、豊臣家の存続を願い・・・



029.jpg

六問銭》は本来、亡き人の三途の川の渡り賃です。
三途の川の渡り口に「脱衣婆さん」がいて白装束以外の
すべてを奪ってしまいます。

その代わりに《六問銭》だけは持たせてくれるそうです
「地獄の沙汰も金しだい」と言われますが、余分なものを
捨てた証にもなりますね。

真田家の《六問銭》は、地位や領土の欲を捨てて戦い抜く
意気込みを表しているのでしょう



DSC_1663.jpg

大阪夏の陣でも真田幸村は活躍しました。
数的に劣勢だった真田隊でしたが、《六問銭》の旗のもと、
高い戦意と捨て身の攻撃で徳川家康を三度追い詰めました。

あと一歩というところで討ち死にしてしまいましたが、
十字軍の十字架のように《六問銭》が真田幸村と真田隊に
力を与えたのでしょう

自分の身を捨ててでも守ろうとするものがあったとき…
人は想像以上の力を発揮しますね




次は、自分の命と引き換えに、家を守った《細川ガラシャ》に
ついてです。






拍手

今回のいい寺は・・・
大阪の一心寺です♪

大阪冬の陣で徳川家康が本陣を構えたのが茶臼山
でしたね。
その茶臼山に隣接したところに古くて新しいお寺
ありました


DSC_1540.JPG

写真は浄土宗・一心寺の山門と仁王様です
ブロンズ製の仁王様は初めて見ました。
現代的で躍動感がありますね



DSC_15051.jpg

ここはお骨佛の寺・納骨と《おせがき》の寺といわれています。
納骨堂は沢山のお参りで線香の煙が一面に立ち込めていました。
絶え間なくお参りの方が訪れていました
どなたでも、いつでも納骨と先祖の法要をお願いできるそうです。



DSC_1529.jpg

納骨堂に祀られているのが《お骨佛(おこつぶつ)》です。
納骨された「お骨」約15万~20万体で一体の佛
造立されます。

約10年に一度、新しい《お骨佛》が祀られるそうです。
右手前が新しい《お骨佛》ですね
亡き人は、三途の川を渡って仏になるそうですが、
この世で仏(お骨佛)になりましたね・・・


DSC_1526.jpg

子供がおじいさんに教わって線香に火を点けています
堂内の《お骨佛》の造立年と何年に納骨した方のお骨佛で
あるかという案内がありました
どの《お骨佛》が身内の骨の仏様なのかが、分るように
なっています。



DSC_1537.jpg

本堂内では「おせがき」の法要が行われていました。
「おせがき」とは施餓鬼のことで、亡くなった人が六道の中の
餓鬼道に落ちないように、追善の供養を行うのが「おせがき」の
意味です。
お釈迦様が弟子の目連尊者に諭しました。
自分さえ良ければ、身内さえ良ければと考えれば
 餓鬼道に落ちてしまいますよ。』




DSC_1531.jpg

お骨は《舎利(シャリ)》といいます。
米粒もシャリといいます。
ご飯は私達の主食ですね。
舎利礼文というお経に「一心頂礼、萬徳円満・・・」と
書いてあります。

「一心に手を合わせて、皆さんの心が一つ(円満)になりますように」

これが、お釈迦様の教えの真髄・コツ(主食)でしょうね。
本堂前には私達の心を乱す邪鬼がいました
「自分だけ、身内だけ」という心を持たないように・・・



DSC_1504.jpg

境内を出て道を渡ったところに、一心寺三千佛堂
あります。
どなたでもお参りできます
外から見ても圧倒される黄金の仏様ですね。



DSC_1515.JPG

手前の仏様は干支を司る十二神将です。



DSC_1507.jpg

三千佛の祭壇の内側は講堂になっていました。
中央祭壇には、西域の峰々の向こうから現れた大きな
阿弥陀三尊
ここで、日曜学校法話説教が行われています。
お布施(浄財)は、布教(教え)という形でみなさんに
お返ししているのですね。



DSC_1505.JPG

演芸ホールもありました。
ここは、時代に合わせて積極的に新しいことに挑戦している
お寺ですね!

法然上人と後白河法皇がこの地で「日想観」を修せられて
から、庶民のお寺として歴史を刻んできました。

都会の寺、田舎の寺、大きな寺、小さな寺・・・
いろいろないい寺がありますね!!



※お釈迦様の弟子《目連尊者》についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/91/


※東寺の《邪鬼》についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/104/

拍手

今回のいい寺は・・・
大阪の街を散策してみました


大阪市内には、茶臼山古墳や、聖徳太子の四天王寺
豊臣秀吉の大阪城など、歴史的な魅力がたくさんありますね。



DSC_1642.JPG

大阪城にある豊臣秀吉像です
年老いていますが、天下を取った力強さが伝わってきますね
生誕地・名古屋にもないほど立派な像に、大阪の人の
豊臣秀吉への思いの強さを感じました。



DSC_1637.jpg

豊臣秀吉の果たした夢《天下統一
大阪を中心に豊臣家の繁栄を願いましたが、悲しくもここが
滅亡の地になってしまいましたね。

江戸時代から明治になって、豊臣秀吉人気が盛り上がり
豊臣家を滅ぼした敵・反徳川家康という形が出来上がりました。
今でも「世の中が悪いのは、徳川家康のせいや」と
冗談半分で語るそうです。



DSC_1555.jpg

大阪冬・夏の陣で合戦の舞台となった茶臼山です。
冬の陣では、徳川家康が本陣を構え、夏の陣では
豊臣方・真田幸村が陣を構えました
ここが、戦いの要所だったのですね。

茶臼山に架かるこの橋は「和気橋」といいます。
朝鮮、韓国、日本の融和を願う《百済さん・和気山統国寺》に
ちなんだ名前で、平和への架け橋の意味があります



DSC_12931.jpg

聖徳太子は四天王寺を建立するにあたって、百済から職人を
招きました。
その職人が《金剛組》となって度重なる焼失のなかで四天王寺の
再建を担ってきました

世界最古の企業といわれてきましたが、現在は新・金剛組として
宮大工の技術を守っています。

仏教伝来とともに多くの朝鮮文化が渡来して、日本の文化に
取り入れられました。
文化をもたらした百済人のおかげで、四天王寺は国際交流の
中心地になったのかもしれませんね。
その文化交流の歴史を伝える祭《四天王寺ワッソ》が毎年
行われています。

ワッソとは『来た!』の意味だそうです♪


DSC_1556.jpg

茶臼山の堀の向こうになにわのシンボルタワー《通天閣》が
見えました
池には噴水があって、ここは市民の憩いの場になっています。
現在、茶臼山は天王寺公園の中にあります


DSC_1551.jpg

公園内にある大阪市立美術館では聖徳太子ゆかりの名宝展
開催されています。
河内三太子、叡福寺、中野寺、大聖勝軍寺に伝わる聖徳太子に
所縁のある貴重な宝物がありました。


highlight_photo13.jpg

大聖勝軍寺の木造四天王像です。
平安後期の作ですが、日本の四天王とは雰囲気が違いますね。
大阪は渡来文化の上陸地として、朝鮮との関係が続いていたのでしょう。



7c9b30b6.jpg

『南無』と手を合わせる幼い聖徳太子です。
頭が大きいけれど、顔つきはおとなびた顔をしていますね。
このように目をつりあげるのはかしこさのサインです。
こどもらしさとかしこさ。
この二つを一緒に表すのはよっぽど優れた作家でないと
なかなか難しいそうです。

太子信仰を今に伝える立像や、生涯を表した絵図、文化財等に
ふれて、時間を忘れて見入ってしまいました



DSC_1696.jpg

鶴橋に向かっていく途中に韓国の寺院・観音寺がありました。
黄金仏に鮮やかな装飾品、そしてたくさんのお供えもの
堂内の雰囲気が日本の寺院とは違いますね。



DSC_1703.JPG

鶴橋は韓国に行ったような気分になれます。
キレイなチマチョゴリですね
最近の若い韓国人はチマチョゴリを着る機会が少ないそうです。
結婚式や特別な行事のときにしか着ないと聞きました。


DSC_1705.JPG

会社帰りのお父さん♪
お土産か、晩酌の肴を買っているのでしょうか


DSC_1704.JPG

ここには韓国、朝鮮の食材や料理の店がたくさんあります



DSC_1701.jpg

アーケードの中にも仏様を祀って、お参りする場所がありました
おじいさんのお参りする姿にも温もりを感じました。
形にとらわれずに信仰する気持ちが持てたらいいですね。



大阪散策は、まだ続きます



拍手

今回のいい寺は・・・
和宗本山・四天王寺です♪

四天王寺は聖徳太子によって創建されてから今日まで
太子信仰舎利信仰浄土信仰を大衆教化の柱にしてきました。

四天王寺には平安時代から鎌倉時代に起きた宗派の開祖が
こぞって参籠(一定の期間こもってお祈りする)した事でも有名です。




DSC_1298.jpg

特に最澄がここに借住してから天台宗との関係が深く、
戦後まもなくまでは天台宗に属していました。

現在は「聖徳太子の寺」の原点に戻り、天台宗から独立しています。
そこで、聖徳太子の十七条憲法の第一条
和を以って貴とし、忤(さからう)ことなきを宗とせよ
から《和》の一字をとって『和宗』本山となっています



DSC_1299.jpg

亀井不動です。
聖徳太子が亀井の水を覗かれるとそこには不動明王の御姿
映っていたため、ここに不動尊を祀ったのが起源とされています。
みなさん水をかけてお参りしていました。
台座に付いた深い緑の苔が信仰の深さを感じさせますね



DSC_1392.JPG

境内には、聖徳太子にご縁のある仏様以外にも、四天王寺に
参籠した各宗派の開祖が祀られていました。
和宗とは、日本の仏教の『和』という意味もあるのでしょう。

伽藍内の講堂では、天台宗・最澄、真言宗・空海、時宗・一遍、
融通念仏・良忍、浄土真宗・親鸞、臨済宗・栄西の法要を順番
に行っています。



DSC_1351.jpg

境内では、写生会の人たちが作品について談笑していたり・・・



DSC_1354.jpg

参詣者が弘法大師に向かって般若心経を唱えていました
四天王寺は四国八十八ヶ所の番外です。



DSC_1356.JPG

同行二人」八十八ヶ所の巡礼は弘法大師と一緒に歩む事です。
弘法大師の杖から伸びる紐を通して、それを感じるのでしょう
弘法大師空海はここに借住して、西門で西の海に沈む夕陽を
拝して、西方極楽浄土を観想する(思い浮かべる)日想観》と
呼ばれる修行を行いました



DSC_1385.JPG

四天王寺の西に建つ《極楽の門》です。
この門への参道がメインストリートとなっています。
門の向こうに鳥居が見えました
写真は境内から見た極楽門の裏側ですが、西方浄土を観想する
時には、こちらが入口になり、表側となるのでしょう。

昔はこの近くまで海で、春、秋の彼岸・中日には鳥居の方向の
水平線に太陽が沈みました
彼岸の中日には日想観の法要が行われ、多くの参詣者が
西に向かって手を合わせるそうです



DSC_1386.JPG

西門・石の鳥居の扁額には『釈迦如来転法輪処 当極楽東門中心
と記されていました。
空海の後、最澄が借住してからは天台浄土思想とも結びついて
極楽浄土の東門として四天王寺は浄土信仰の中心となりました。
鳥居も境内に入るときは手前の門ですが、拝むときは奥の門という
ことになりますね。




DSC_1340.JPG

中心伽藍の北に鐘楼があります。
このお堂の鐘は《引導の鐘》といいます

鐘の音は遠く極楽まで響き、彼岸には先祖供養のための
鐘の音が絶えないそうです。
極楽に導く鐘の音は、鳥居の向こうの浄土に響くのでしょうか。
それとも五重塔に祀られた先祖に向けて響くのでしょうか・・・
四方に響きわたる鐘の音は私達の心も含めて、全てに届くの
でしょうね



DSC_1348.jpg

掲示板には聖徳太子の御言葉が書き記してありました。
今の世の中、垣根を作ったり、仲間を区別したりすることが
多いですね。
以前に「勝ち組」「負け組」と線引きする言葉もありました。

賢い愚かは丸い輪に端がないように決められません

人生は勝ったり負けたり、賢かったり愚かなことをして反省したり…
ただ、過去を引きずらずに前向きに歩みたいですね。

今度は、四天王寺の西、茶臼山に行ってみます







拍手

 1  2  ≫
HOME
カレンダー
04 2017/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新コメント
[07/21 防弹网]
[07/21 勾花网]
[11/26 たけし]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
[08/16 ひまわり]
ブログ内検索
プロフィール
HN:
チエ
性別:
女性
自己紹介:
いい町.netのnetはネットワークのネット!
人と人を、人と地域をつないでいきたい♡
地域に根差したお寺の発掘も
いい町.netで人がつながっていったら嬉しいな!!


最新トラックバック
バーコード
フリーエリア
アクセス解析
忍者ブログ [PR]