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皆様のご無事、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
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 今回のいい町は・・・
東海道・由比宿の望嶽亭です♪
 
 

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明治維新で活躍した西郷さん
 
 



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愛宕山で行われた勝海舟との会談で、
江戸城無血開城が決まりました

 
 
 

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江戸の町を火の手から守った歴史的会談
その裏で、一人の幕臣が活躍をしました

 
 
 

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その人が、山岡鉄舟です
 
徳川慶喜の密使として、官軍の本隊が陣を張る
駿府城まで赴いて、西郷隆盛と交渉をしました
 
品川宿まで官軍が迫ってくる中、東海道を一人で
下って行ったのですから、相当な覚悟があったの
でしょう

 
 
 

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駿府に向かう途中、最後の難所・由比の薩埵峠
官軍にみつかってしまいました
 

 
 

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追っ手から逃れるために飛び込んだのが
由比宿の望嶽亭・ふじやでした

 
 
 

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当時の建物が今でも残っています

 
 
 

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匿ってもらった御礼に山岡鉄舟が残した
フランス製の回転式ピストルもありました
 

 
 

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窓の外には駿河湾

 
 
 

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山岡鉄舟は、この階段から浜に降りて
船で清水港に渡りました
 
そこから清水次郎長の案内で、駿府に向かった
そうです
 
 この降口が歴史の扉となりましたね

 
 
 

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今は、お婆さん一人で望嶽亭・藤屋を守っています

 
 
 

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人々の往来で賑やかだった街道は、
山岡鉄舟江戸の町を救うため歩んだ道
 
歴史の舞台はハイキングコースとして人気です

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今回のいい寺は・・・・・
侠客・清水次郎長です。


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静岡から見た霊峰富士です
 
文部省唱歌 富士山
あたまを、雲の上に出し、四方の山を見下ろして
雷さまを下に聞く、富士は日本一の山
 
明治36年読売新聞で著名人千人を取り上げる「千人評」を
催した時、乃木大将、福沢諭吉らと並んで清水次郎長
取り上げられました。
 
そのなかで
「さぁ来いと、富士を背中に背負って立つ、男の中の男一匹」
と、清水次郎長を評しています
 
 


 DSC_0008.jpg
 
富士山の前に広がる駿河湾です
対岸が伊豆半島です
駿河はアイヌ語で、トリカブトを意味します。
猛毒のトリカブトは、使い方によって薬にもなるそうです。
 
この湾は海底が深く暖流が入り込むため、沿岸と湾の
真ん中では気圧が違うそうです
沿岸では穏やかな海でも中心部に低気圧が発生する
ことがあります。
晴天でも台風のようなシケとなって航行する船に襲い
かかるそうで、トリカブトみたいに取扱いを間違えると
大変なことになることから駿河湾と名がつきました。
 
若いころの清水次郎長は、粗暴な振る舞いで世間を
困らせ、家族にとって駿河(トリカブト)のみたいで
扱いに難儀したそうです。


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甲州(山梨県)から駿河湾に注ぐ、富士川です。
戦国時代には武田信玄が甲州から富士川を南下して
今川氏を追い出し、駿河国を領地にした時期もありました。
甲州と駿河を結ぶ重要な川で、江戸時代にはこの水運を
使って甲州年貢米が清水港に納められ、塩が甲州から
信州に運ばれました


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安藤広重の描いた清水港です。
徳川家康が駿府城を築城した時には、清水港から巴川を
上って資材が搬入され大阪冬・夏の陣では、多くの徳川
軍勢が清水港から大阪に向かいました
 
兵員や物資の輸送に尽くした功によって富士川から駿府の
安倍川までの海上輸送は、全て清水港の廻船問屋だけが
取り扱う営業特権を徳川家康から与えられました。


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港には広大な幕府蔵屋敷が建ち、納められた甲州年貢米
千石船に積まれて江戸浅草河岸まで運ばれました
清水港は廻船問屋を中心に物資の集散地として栄えたそうです。
 


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清水次郎長の養父は、甲田屋という米屋を営んでいました。
 
清水次郎長は米屋の跡取りとして安定した暮らしを望む
ことなく博打場での刃傷沙汰から清水港を飛び出して
しまいます
 
西に向かった清水次郎長は、三河で路銀(旅費)に困り
寺津の治助親分の所で草鞋をぬいで、侠客の修行に
励みました。
腕と度胸を磨いて清水に戻った次郎長は、早速けんかの
仲裁という大仕事をこなして名が知れるようになりました。



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喧嘩の仲裁で男を挙げた次郎長一家の元には、多くの
渡世人が訪れました。
敷居を跨いだ渡世人は客として食事の世話をしますから、
数十人の飯を食べさせるうちに金回りは追いつかず質に
出す家財道具も無い状態が続いたそうです。

親分稼業も大変です。
私利私欲ばかりを考えていたらとても務まりませんね。
渡世人が出立の時には草鞋銭を持たせますから一宿一飯
の恩は、決して忘れないものでした。



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「切った、張った」の世界を生き抜き東海一の大親分
となった清水次郎長です。
義理と人情に厚い侠客・清水次郎長の活躍は、時代劇で
取り上げてご存じですね。
千人評で「富士を背中に背負って立つ」と評されたのは
後の活躍でした。
 
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われ、徳川幕府を
倒して世間が湧くなかでした。
徳川幕府の家臣を引き受けて清水港で迎え、生活に困らない
に世話をしたそうです。
 
そして、大政奉還で将軍職を辞した徳川慶喜が静岡で
暮らすことになり、新門辰五郎に見込まれて清水次郎長は
警護役を任されました。
 
世の中が明治新政府、文明開化と進むなか歴史の
表舞台は知られていますが、江戸城開城後の幕臣の
行き先は知らなかったですね。
この功績が「富士を背中に背負って立つ 男の中の男一匹」
といわれ弱きを助け悪に立ち向かう清水次郎長の真骨頂
だったのです。
 
 


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清水次郎長は幕臣の就職先を斡旋するために三保の
塩田や有度山の開墾、相良の油田開発と色々な事業と
関わりを持ちました。
廻船問屋には蒸気船による横浜との定期航路開設を説き、
静岡茶の輸出会社設立に尽力しました。
私欲の無い次郎長は、自ら事業を行って財を成そうとは
思わなかったみたいです。
その代りに船宿「広末」を開業して、悠々自適な生活を
おくったそうです。
 
次は次郎長が若い頃、侠客の修行をした三河・寺津に
行ってみます
 

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今回のいい寺は・・・・・
静岡市・清水港です


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平成の大合併清水市静岡市は合併し、清水市の名は
消えて静岡市・清水区となりました
皆さん、これで「清水」の名が消えていくのかと心配したそうです。
そんな折に「次郎長翁を知る会」の会報に勇気付ける文章が
載りました。
 
これは、どの地域にも当てはまると思うので一部を紹介します。
 
文化があれば地名は残る
 
残念ながら、清水という都市名が消えた。
清水という名が忘れられずにずっと残るだろうか・・・・
合併して大静岡市が生まれると、これからの市長は
清水、静岡の両市民の対立感情をなくすために、極力、
清水意識や静岡意識を消そうと努力するだろう。
 
これから50年以上も経つと清水の名は次第に消えていくだろう。
清水の名をずっと残すにはどうしたらよいだろうか。
 
博多は昔、福岡と合併したが、現在でも博多という名前は
はっきり残っている。
 
まず、新幹線の駅は博多駅であり、博多という地域名にも、
博多人形、博多どんたく、博多織などの地域産品名にも
残っている。
私たちは福岡と言うより、博多といった方が親しみがある。
大阪という都市名と同じように、難波という地域名は有名だ。
つまり、しっかりした文化があり、多くの人がその文化に
憧れれば、そこの地域名は永遠に残るはずだ。
 
 
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博多どんたくです。

 

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博多には博多織の文化を体験できる場所があります。


清水の人たちも「清水」という伝統や文化をしっかり
残していくために、清水市にある良い文化や伝統を
後世に伝えていけるよう努力していただきたい
ですね。
その地の良き伝統や文化が残るのは、その地域に
住む人たちの、その地域に対する誇りがそうさせて
いくものだろうと私は思います

市町村合併によるホームタウンの吸収に負けずに
その土地の良さをアピールしていってもらいたいもの
ですね



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今、清水の街を全国に紹介しているのは、皆さんご存じの
ちびまるこちゃん」ですね。
原作者さくらももこの小学生時代の清水を舞台にしています。
昭和50年前後で、清水の街が賑わっていたころです



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そして、清水エスパルス
Jリーグ発足当初から参加して、話題の選手を沢山だしています。
以前は、市内の高校が全国大会の優勝・準優勝の常連校で
有名選手が多く入団しました。
最近は一時期の勢いは無いですが、市民と地元企業の
サポートによって上位をねらって頑張っています



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清水の人物といえば、幕末から明治にかけて清水港
拠点に活躍した清水次郎長が先ずあげられますね
浪曲師・2代目広沢虎造の18番「清水次郎長伝」で
 
旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、
名所古蹟の多いところ、中に知られる羽衣の松と、
ならんでその名を残す、東海道一の親分は、
清水港の次郎長~
 
と語って一躍有名になりました。
テレビ時代劇で「清水次郎長」が放送されたころは、
多くの観光客が訪れて清水市よりも清水次郎長の方が
有名で、次郎長の清水だったそうです



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港にそそぐ巴川の河口近くに清水次郎長生家があります。
他に菩提寺・梅蔭寺や晩年に営んでいた旅館・広末亭
近くにあります。
生家の中には次郎長の遺品や資料が展示してありました
 

 
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清水次郎長のハマり役といえは、杉良太郎でした。
大江戸捜査網、水戸黄門、遠山金さんと時代劇に
欠かせない役者で人気は抜群でした



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最近ではNHK・木曜時代劇で「次郎長背負い富士」が
放映されました
原作 山本一力「背負い富士」
脚本 ジェームズ三木
主演 次郎長・中村雅俊 おちょう・田中美里
「斬った、張った」の侠客・次郎長より、史実に則った人間・
次郎長
が描かれていました。
杉良太郎、中村雅俊と体格の良い丸みのある役者が主役を
演じ、次郎長はクリーンで包容力のあるイメージがしました。
 


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清水次郎長はミュージカルにもなりました
平成を斬る!舞う。歌う。
髷(まげ)を取って歌あり、タップダンスあり、娯楽と
人情味のある内容で幕末と現在を重ね合わせて、私達が
忘れかけている情や夢を伝えています
 


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今度は、映画になります
 
次郎長三国志
 
泣く子も黙ると謳われた清水港の次郎長一家。
情が厚くて義理堅い次郎長親分を筆頭に、大政、
小政、法印大五郎、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、
大野の鶴吉、そして森の石松ら
肩で風切る荒くれたち。
恋女房・お蝶の姿を瞼に抱き、甲州で一大勢力を誇る
黒駒の勝蔵、裏切り者の久六、宿敵・三馬政と一世一代の
闘いを繰り広げる!
 
監督マキノ雅彦は、ご存じ津川雅彦ですね。
監督作品第2弾として選んだのが、叔父マキノ雅弘監督が
生涯で13回監督した代表作「次郎長三国志」でした。
 
もう一度日本の娯楽映画の楽しさを思い出してほしい
と願いを込めて制作したそうです。



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主演 次郎長・中井喜一 おちょう・鈴木京香
富士を背負って「いざ出陣!」
 
因みに次郎長三国志の三国は、駿河遠州三河の国です。
そして、三河・寺津侠客・次郎長を生み、義理人情
渡世人稼業から天下の大親分へと歩んでいく出発点
となりました
三河には寺津の間之助吉良の仁吉乙川での
仇打ち
など次郎長に関係した人物や場所があります。

 
 
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清水次郎長は、無宿者となって旅姿で全国各地を
渡り歩き、腕と度胸を磨いて東海道一の大親分として
明治を迎えました。
そして、山岡鉄舟との出会いにより人生の大転機を
迎え、侠客・次郎長は堅気として、それまでと違う人生
を歩むことになります。
明治以降の清水次郎長を映画やテレビで取り上げる事
が無いので、その姿は知られていませんね。

次郎長翁を知る会」では、清水次郎長の本来の姿を
内外に伝えることを中心に活動しているそうです。
 
そして、活動を通して皆さんの心に清水の名を残そうと
努めています


これから、清水次郎長を通して関係した地域や
人物の歴史を探ってみたいと思います

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今回のいい寺は・・・・・・
駿府城です


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1・富士
静岡市からの眺めです


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2.
徳川家康の鷹を持つ姿です。
 


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3.茄子
徳川家康は、清水・折戸の茄子が好物でした
1.富士 2.鷹 3.茄子
徳川家康が駿府に居城を構えた理由であげた三つです
他にも意味が色々あり、富士は「広大」鷹は「つかみ取る
茄子は「成す」を表すそうです
いずれも吉を表し、「この三つの夢をみれば万事吉」と
言われていますね。


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徳川家康は幼少期の8歳から、今川義元が治めていた駿府
人質として住んでいました
その間に今川家軍師で静岡・臨済寺雪斉和尚から勉学の
指導を受けたそうです
臨済寺には、「徳川家康・手習いの間」が今でも残っています。
当時、岡崎は今川家の支配下にありましたが、19歳の時に
桶狭間の合戦で今川義元が討たれると岡崎に戻ったそうです。
 


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徳川家康の武将としての才覚は、人質時代に培われたものと
言われています。
忍耐強く機会を伺い、関ヶ原の合戦の勝利で天下を治めることに
なりましたね!



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徳川家康征夷大将軍となって徳川幕府を開くと直に三男・
徳川秀忠に将軍職を譲り徳川幕府は世襲であることを諸大名
に示してから、駿府に移りました
 
駿府に移って亡くなるまでの12年間、この地から諸国に睨みを
利かせて徳川幕府の基礎を築いていきました。
隠居の身となっても実権を握って政治を行ったので「大御所政治」と
言われています。



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駿府城から発令されたものには、武家諸法度禁中並公家諸法度
キリスタン禁止令があります。
そして、最後の仕事として「大阪の陣」へと向かっていきました
夏の陣豊臣家が滅ぶまで「南無阿弥陀仏」を書き続けたそうです。
それは、孫娘・千姫の嫁ぎ先の豊臣家を滅ぼすことへの供養の
為か徳川家の安泰の為か、数々の戦の中で失った家来や討ち
取った武将の供養の為だったのでしょうか!
 
戦国時代は徳川家康によって終焉し、天下太平の世を
迎えましたね。
 


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駿府城内に徳川家康お手植えのミカンです
 
日光山輪王寺には、大黒頭巾を被り寛ぐ晩年の姿の肖像画が
あります。
隠居の身となりながら大御所政治で奔走しましたが、大阪の陣
機に大黒頭巾型の兜を脱ぎ本物の隠居さんになったのでしょうね。
七福神の大黒さんは「裕福」を与えるそうです。
 
この七福神の顔ぶれが決まったのは天海僧正徳川家康
七福神の徳を説いてから後のことだそうです
 
*夷は清兼、大黒は裕福、毘沙門は威光、弁財天は愛嬌、
 布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を与えると
 いわれています。
 


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徳川家康の死後、徳川秀忠の二男・徳川忠長が藩主と
なりますが乱心のため兄・家光によって改易とされ、その後は
幕府直轄地(天領)となりました。
徳川家康によって創建された天守閣は失火により焼失し、
二度の大地震(宝永、安政)で石垣まで崩れる尽大な被害を
受けたそうです。
 
明治には、建物も取り壊されて城内は陸軍の管轄となりました。
現在では駿府公園となり、平成になって東御門と巽櫓が建て
られて城の雰囲気を取り戻しました



DSC_0567.jpg
 
堀の石垣です。
石積みが違うのは、地震のつめ痕でしょうか
東海地方には、周期的に大地震が起きると言われていますね
 



 DSC_0558.JPG
 
発掘された旧堀と静岡県警庁舎です。
大政奉還により明治元年に官軍が駿府に駐屯して駿府藩が
成立し駿府町奉行所が廃止されました。
 
徳川宗家16代を継いだ徳川家達駿府城に入り、勝海舟
山岡鉄舟が同行して駿府藩幹事役に就いたそうです。
 
そして、駿府町差配役に就いた伏谷如水が清水次郎長
召し出しました。
街道一の大親分といわれた清水次郎長の渡世人稼業の
なかで、これまで犯した罪を放免として、東海道の沿道警護に
当たらせました。
 
江戸時代から明治に変わる混乱の中、治安を維持するには
清水次郎長が適任と考えたそうです
毒をもって毒を制す」今では考えられないことですね。



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駿府公園の周りには、行政施設や文化施設が建ちならんで
いて静岡文化と歴史の中心地となっています。
 
平成の大合併で、静岡市に清水市、蒲原町が編入し
て政令都市となりました。
行政的なメリットがあるでしょうが、歴史のある地名
変わるのは寂しいですね



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そんな中、大河ドラマで徳川家康を演じた津川雅彦
映画監督・マキノ雅彦となって「次郎長三国志」を
制作しました
 
 
次は清水次郎長の生まれた街に行ってみます



七福神についてはコチラ↓
 「いい寺・七福神めぐり」
 e-tera.net/Entry/59/


※七福神めぐりの「泉桶寺」はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/60/
 
 
 

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今回のいい寺は・・・・・
久能山東照宮参拝です



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静岡が全国に誇る場所といえば、日本平・久能山東照宮
ですね。
荘厳な権現造りの社殿は、日光東照宮の見本となり
徳川家康の歴史を残すものとなっています


 
DSC_0403.JPG
 
青銅の鳥居を潜って拝殿に向かいます
 
 「我れ死後は遺骸(いがい)を久能山に納め、葬儀は
江戸増上寺で営み、位牌(いはい)は三河大樹寺
立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を
建て勧請(かんせい)し、関八州(かんはっしゅう)の
鎮守にせよ」
 
これが徳川家康の遺言でした。


 DSC_0414.JPG
 
鳥居を潜ると左手に立派な朝鮮蘇鉄が植えてあります
周りの基礎石は明治になるまで此処に五重塔
建っていた跡です
廃仏毀釈で五重塔は取り壊され、駿府城から朝鮮蘇鉄を
移して植えたそうです。
駿府城も取り壊されて静岡市に払下げとなりました。
時代の移り変わりを感じます。

 
DSC_0426.JPG
 
蘇鉄の他に、徳川家康が駿府城に植えた樹齢三八〇年
の「実割梅」が移植してありました。
樹齢三八〇年にしては幹が細いですね
この梅は駿府七不思議の一つに数えられ、実の筋が深く、
簡単に割れて食べやすく重宝された梅だそうです。
 


 DSC_0418.JPG
 
正面の石段には柵がしてあります。
正面の石段から唐門を通って拝殿に行けたのは、
勅使か徳川家だけだったのでしょうね参拝者は、
隣の石段を上ります


 DSC_0428.JPG

1.富士 2. 3.茄子徳川家康が好んだ
清水・折戸の茄子です
 
徳川家康が駿府に居城を構えた理由として・・・

一、
富士が常に見られる(景勝地)
二、鷹(狩り)によい(民情視察や運動によい)
三、茄子を名産として何処よりも早く食べられる(温暖な気候)
 
の三つをあげたそうです。
 
民情視察といえば新製品を開発した時、先ず静岡と広島
で先行販売して商品の人気を調べるそうです。



 b8156da5.jpg
 
石段の途中に神庫があります。
校倉造りの建物で、ぬれ縁が銅版で覆ってあるところから
司祭で重要な物を入れて置く場所だと思います。



 DSC_0432.jpg
 
日枝神社です。
江戸時代までは、薬師堂で薬師如来が祀られていました
廃仏毀釈神社に変わり、祀られていた仏さんは麓の寺に
移されています。
 
日枝神社と徳川家康の関係は深く桃山時代に江戸に移封した際、
江戸城の鎮守として遷宮したそうです。



 DSC_0435.jpg
 
日枝神社から見た拝殿とつながった権現造りの本殿です。
最近、修復して彩色の鮮やかな社殿が蘇りました
日光東照宮に比べて質素と言われますが、豪華な造りですね。
 


 DSC_0479.jpg
 
見事な飾りを施した拝殿の軒裏です。
彫刻、模様、組物等に桃山時代の技法も取り入れられた
江戸初期の代表的建物として明治45年、国宝に指定された
そうです。




 DSC_0440.JPG
 
拝殿の正面です。
奥の本殿には三つの扉があり、中央が徳川家康で左右に
織田信長豊臣秀吉が祀られています
徳川秀忠は、父家康を大明神として久能山に祀ろうと
しましたが、「豊臣秀吉と同列の明神でいいのか
の一言により東照大権現となって祀られたそうです
その豊臣秀吉が脇に祀られているのも不思議ですね。


 
 DSC_0464.JPG
 
本殿の左から徳川家康神廟に向かう石段があります。
参道沿いには、大名が参拝の折りに記念に置いた石灯籠
整然と並んでありました
苔むした石灯籠が、権現造りの建物と対照的で静かな
雰囲気でした。
 
 
 
 DSC_0466.jpg
 
徳川家康神廟です。
徳川家康は元和2年4月に75年の生涯を閉じましたが
その日の夜には、遺骸(いがい)を久能山に移したそうです。
生身の遺骸を早く人目から隔離して、徳川家康の尊厳を守り
偉大な神として祀ることを考えたそうです。
その為、遺骸の埋葬式は神道でおこなわれ、ごく一部の
関係者以外の立ち入りを禁止したそうです
 
そして、徳川家康の遺言は位牌の件以外は反故とされ
増上寺での葬儀は行われず、日光に小さき堂を建て
勧請(かんせい)するはずが、一年後には遺骸を掘り起こし、
日光に改葬され大規模な東照宮が造営されました



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世の中の流れは常に変化して、本人の思いと周囲の思惑が
違った結果、遺言のとおりに行かなかったのでしょうね。
 
神廟前の灯籠には、宝珠と密教道具の三鈷杵(さんこしょう)
描かれていますね。
徳川家康東照大権現となる流れには、金地院崇伝
南光坊天海の二人の僧が大きく関わりました。
彼らによって、主君家康は神君家康となり関八州の鎮守
となったそうです。
そこで、明治になるまで各地の東照宮は神仏融合の場所
だったのでしょうね。
 
 

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日光東照宮が関八州の鎮守となり、久能山東照宮
西に睨みをきかす存在だったそうです。
生前の徳川家康も、江戸を守るために駿府に居城を建てて
西に睨みを利かせたのでしょうね
 
 
権力者は、自分が手にした天下を安定し継続させようと
思い、自分の死後の事が心配で心配でたまらないもの
なのでしょう!

徳川幕府の治世を守るために、このように家康神格化
する事で、その威を示したり様々な政策がなされたの
でしょう。

そのような様々な政策のおかげで、徳川幕府は
200数十年にも渡って政権を維持しました

しかし、そうした政権の一つである鎖国のほころびが
倒幕への流れを作った事を考えると、時が経ても
大事にしなければならない事と、時代に応じて変化を
させなきゃいけない事があるように思いました

もうひとつは、家康が徳川幕府は開いた頃は
戦乱が長く続いた中で天下太平を望むという志で
幕府を開いたと思います。
そんな、天下太平の為に、安定・継続する治世を
望みつつ様々な手を打ってきたんだと思います。

それが、いつしか天下太平の為ではなく、徳川の
為になっていったのかもしれませんね・・・

いつの時代のいかなる政権も、天下の為(民衆の為
という『志』を失った時、滅びて因みを作っているように
思います。

高い志…できれば、私達もしっかり持って生きたい
ものですね




次は、駿府の町・静岡市街に行ってみます。

 

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