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今回のいい寺は・・・・・
次郎長・矢田を目指す
 
お茶屋の主人から
「矢田の一本松から半里いったところが
寺津の町です
と聞いた清水次郎長一行は西尾・矢田を目指します。


 DSC_0167.JPG
 
矢田に着くと、街道沿いに大きな寺院が
目に入ります。
亀休山・養寿寺です。
創建は今から1200年前です。
東大寺の僧・勤操僧都が矢田を通りかかった時、
浜辺だったこの地に霊亀が現れて砂浜で休んで
いるのを見て弁財天を祀ったのが始まりだそうです。
 
 


 DSC_0166.JPG
 
山門前には、三河・円光大師(法然)二十五番霊場
の石碑がありました。
養寿寺は浄土宗西山深草派の寺院で、京都・河原町
六角の誓願寺が本山です。
法然上人から伝わる念仏信仰を宗旨として、全ての人
が救われる「念仏」の教えを説いています。
 


 DSC_0171.jpg
 
渡世人となって清水を飛び出した次郎長一行
仏の教えから外れて侠客の道へとまっしぐら
 
堅気の人なら畏怖の念があって道から外れる事に
躊躇しますよね。
侠客の道を志した清水次郎長は、そんなことは
おかまい無しで地獄の閻魔様も怖くはなかったでしょう。
そんな、清水次郎長も耳を傾けたくなる教えがあります。



 HONEN-IN-011.jpg
 
法然上人の説かれた教えに
「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」
悪人正機説があります。
 
親鸞聖人
「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の
根機である」と説いています。
侠客でも救われて、閻魔大王でなく阿弥陀様の
顔を拝むことが出来る・・・
これは、清水次郎長にとっても実にありがたい教えですね!
 


 DSC_0180.JPG
 
しかし、そこにはちゃんと注意書きがあります。
法然上人は悪を慎み、を努めることを勧めました。
親鸞聖人も「薬あればとて、毒を好むべからず」と戒めています。
誤解すると邪鬼のように四天王に踏まれて、極楽浄土
遠くなってしまいますね。
 
豊田、岡崎から西尾にかけて矢作川沿いには浄土宗
浄土真宗の寺院が多いです。
この地方に暫くいて侠客の修行をしましたから地元の
風習信仰の影響もうけたでしょう。
明治元年に官軍の支配下にあった清水港で幕府海軍・
咸臨丸が撃沈されました
 
咸臨丸の船員の遺体を懇ろに葬って裁きを受けた清水
次郎長は、「死ねばみな仏、仏に官軍も賊軍もありません。」
山岡鉄舟に答えた話があります。
 
感銘を受けた山岡鉄舟は、
「精神満腹」と書した額を清水次郎長に渡したそうです。
その素養は、浄土宗の盛んな三河で自然に養ったもの
かもしれませんね。
 


 DSC_0183.jpg
 
善でも悪でも、敵でも味方でも、どの道を歩んでも手を
差しのべる仏様がいます。
皆さんご存じの地蔵菩薩です。
あの世で二進も三進も行かなくなった時、最後に救うのが
地蔵菩薩の役目です。
すべての人を極楽浄土まで連れていってくれるそうです。
 
あの世の事を心配しては渡世人稼業は務まらないでしょうが、
寺津まで後半里、清水次郎長一行は矢田の養寿寺でお参り
してから治助親分の所に向かったような気がします。
 


 DSC_0185.jpg
 
養寿寺徳川家と所縁のある寺院です。
ここには、家康初陣の木像や大伯母矢田姫の墓があります。
矢田姫は、戦国時代に吉良荘を治めていた吉良義安
に嫁いだ姫です。
吉良義安は今川義元に刃向かい駿府で人質となった時、
徳川家康と出会って元服した際には理髪役を務めたそうです。
そして、吉良義安の子孫が吉良上野介です。
吉良家が徳川家の遠縁にあたる事を考えると殿中の刃傷沙汰
で吉良上野介がおとがめを受けなかったのも分かりますね。



 003.jpg
 
養寿寺の釈尊涅槃会は『矢田のおかげん』と親しまれています。
当日は境内に沢山の露店が出て、多くの人々で賑わいます
かげん」とは管弦楽のことで、今から三百年以上前にこの地で
飢饉があった時に、人々が音楽を奏でて安泰や繁栄を祈った
そうです
 
さらに西尾藩の殿様の計らいで管弦楽付の涅槃会が10日間
行われその間藩内は休日だったそうで
これが『矢田のおかげん』の始まりです。
修行中の清水次郎長も『矢田のおかげん』に出向いたでしょうね。
境内の何処かでサイコロを振っていたかもしれません


 
DSC_0178.JPG
 
もしかしたら地蔵菩薩に願を掛けていたかもしれませんね。
「日本一の侠客になりますように」
 
後で住職に伺いましたら清水次郎長が露天商を呼んで
祭りを企画したそうで芝居などもあったそうです。




 61226beb.jpeg
 
現在の寺津町です。
名前の通り寺と漁港(津)の町です
 
寺津に着いた一行は、早速に治助親分の門を潜ります
ところが、玄関先の壁には十手や捕縄が整然と掛けられていました。
博徒でお上の御用をつとめる二足の草鞋を履く岡っ引きの家でした。
 


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次郎長の生家に氷川きよしの写真が飾られていました♪
清水次郎長は腹をくくって
「おひけぇなすって・・・・・・清水次郎長 江尻熊五郎、
庵原広吉・・・」
一通りの挨拶をすませると奥から治助親分が現れ
「よく来てくれた、さあ」
と手をとり奥に案内しました。
「国元で喧嘩をやって飛び出してきたが、途中で路銀が
つきて困ったところに兄貴の事を聞いてやって来たしだいです。」
程なく清水次郎長は、治助親分のところで草鞋を脱ぐことが
出来ました。
治助親分は清水次郎長一行を家において、厚くもてなした
そうです。
 
次は、寺津の治助です。



※養寿寺の本山「誓願寺」についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/107/

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今回のいい寺は・・・・・
実相寺と西尾の文化です。
 
西尾市は、むかし吉良荘といわれ京都・九条家
領地でした。
吉良と聞いて先ず思い出すのは、忠臣蔵の敵役・
吉良上野介ですね
吉良上野介の先祖は、清和源氏の流れを汲み
足利氏の支流という武家の名門でした。
三河地方の守護職に就いて吉良荘に入ってから
吉良氏と名のったそうです。
 
その後、内紛から西条吉良東条吉良に分かれて
勢力は弱体化してしまいます
ただ、足利将軍家の近臣として仕えて、名門としての
誇りは高かったそうです
東条吉良家は江戸時代には高家筆頭として幕府に
仕えましたが、元禄年間の刃傷沙汰がもとで改易と
なってしまいました
名門の誇りが仇となり、忠臣蔵の敵役として有名に
なってしまいましたね。
吉良上野介の領地は、西尾市に隣接する吉良町
なっています。



DSC_0143.jpg
 
西尾市は、江戸時代には西尾藩といわれ松平家の支流
大給(おぎゅう)松平家が藩主でした。
松平家の支流ということで家紋は「ひとつ葵」です。
 


 DSC_0150.JPG
 
兜の前立は「」の一字ですね。
西尾藩の居城跡は整備されて、城門や櫓や歴史
資料館が併設されています。
 
徳川家康の父・松平広忠は、吉良氏の家臣でした。
時代は移り変わり、西条吉良氏は徳川家康によって
滅ぼされて、江戸時代に西尾藩となったそうです。
藩城・西尾城は、西条吉良氏の居城・西条城の跡地に
建てられました。
東条吉良氏は「名門の家を残す」ということで助かったそうです。



 DSC_0076.jpg
 
西条吉良氏は滅びましたが、西尾には二つの文化が
伝承されています。
その二つの文化の発祥地・実相寺です。
実相寺は吉良氏の菩提寺として鎌倉時代・文永8年に
建立されました。
 
それは、モンゴル帝国フビライ・ハーンの使者が再来日
した年です
当主・吉良満氏は、吉良荘が京都・九条家の領地だった
関係で九条家の菩提寺・東福寺から聖一国師を開山として
迎えました。



 44e43c2d.jpeg
 
当時は、吉良氏の財力により境内には七堂伽藍の
堂宇が建ち、全盛期には40ヶ寺の塔頭があったそうです。
戦国時代に織田信長の焼き打ちにあい諸堂は全て焼失
してしまいました
 
今は、遠州地方の古堂を移した仏殿と周囲の老松が
古刹としての面影を残しています。



 DSC_0090.jpg
 
境内の周りには、茶畑が広がっていました
聖一国師は、開山として迎えられた折りに境内により
持ち帰った茶の種を蒔いたそうです
当時、茶は修行の為の薬と考えられていましたから、
修行僧の為に京都から持ってきたかもしれませんね。
これが西尾茶の始まりといわれています。


 DSC_0097.jpg
 
聖一国師が開山となり、国師の弟子・二世応通禅師に
寺の運営を託しました。
七堂伽藍の境内は、国師が修行した中国・径山万寿寺
模して造られたそうです



 DSC_0104.jpg
 
鐘楼の釣鐘が、珍しい形をしています
鐘の下、裾の部分が八葉に型取られた日本では珍しい
日中混交式で八葉宝鐸型梵鐘 (はちようほうたくがた
ぼんしょう)と言います。
この釣鐘には、龍神が和尚の法話に感銘して寄進したとか
中国・径山万寿寺が火災にあった時、援助したお礼に頂いた
とか、諸説があります。
また、胴周りがのっぺりとして撞木の当たる所も無いので、
風鈴として飾られたという話もあります
どちらにしても中国文化が西尾に伝わったことを示すものですね。
 


 DSC_0119.jpg
 
西尾に伝わる文化として有名なのが、三河万歳(みかわ
まんざい)です。
正月や慶事に披露する祝福芸で国の重要無形民俗文化財
に指定されています。
祝福芸というと染之助、染太郎の「おめでとうございます」を
思い浮かべますね。
 
この三河万歳は、二世応通禅師が中国へ留学中に習い
覚えた随の万歳楽が本となっています。
 
人々に仏教を分かりやすく説くために言葉と節を付けて
教えたのが始まりです
知多半島に伝わる尾張万歳も、応通禅師の兄弟子・
無住国師が名古屋・長母寺に入って法華経を分かりやすく
伝えるために知多の寺領で教えたのが始まりだそうです。
 


 DSC_0113.jpg
 
吉良氏の菩提寺・実相寺の近くに隠居所・丸山御所が
ありました。
そこで、実相寺を中心にした中世文化を「丸山御所の時代
と呼んでいます。
その歴史を経て西尾茶は、茶の湯・文化として生活に
浸透しています
市内で抹茶を頂ける場所や販売店が至る所にあります。
 


 DSC_0110.jpg
 
実相寺に隣接するコミュニティーふれあいセンターに
茶室がありました。
だれでも使用できる場所があり、みんなが親しむことによって
文化は広がるのでしょうね

 
 
DSC_0130.jpg
 
西尾城の中にある旧近衛邸で抹茶を頂きました
栗蒸し羊羹はとても懐かしい味がしました。

近所の和菓子屋さんのおじいちゃんが作る栗蒸し羊羹
が大好きでした。
朝早く、羊羹を蒸す湯気が窓から漏れていました。
栗を手でむき、絶妙な味加減で評判でした。
最近引退され、少し寂しいです。
 



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「お茶」と「三河万歳」
 
歴史を紐解くと色々な人や場所との繋がりが見えて
きますね
文化を伝えることは、歴史を伝えることになるでしょう。
そして歴史を知る事によって、文化を大切にする気持ちが
生まれると思いました。
 
 
清水次郎長は、治助から生まれ故郷は万歳の出る
ところと聞いていました。
「この土地は、万歳の出る処じゃないかね」
「ここは、本場ですよ」
「寺津はまだ先かね」
「矢田の一本松から半里いったところが寺津の町です」
茶屋で話を聞いた清水次郎長一行は、寺津の親分は
治助に間違いないと確信して先をいそぎました。
寺津の親分が治助なら、そこで侠客の修行をしようと
考えていました。
 
次は一行の跡を追って矢田から寺津に向かいます。

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今回のいい寺は・・・・
清水次郎長・寺津に行く です♪
  
天保13年の秋、清水次郎長は喧嘩沙汰が
きっかけで、店も妻も財も捨てて清水を飛び
出して無宿者になります
 
それは、坂本竜馬が脱藩して「志士」となったように、
侠客」となって身を立てることを望んでの事でした。
 
江尻の熊五郎、庵原の広吉を従えて「志を立て郷関を
出る」ように期待に胸をふくらませての旅立ちだったの
でしょう。
清水を後にした3人は、大井川を渡り、天竜川を渡って
上方に向かいました
そのころ、世間は天保の改革の真っ盛りでした。


 adb5a5c9.jpeg
 
改革の中心となった老中・水野忠邦は、出世の為に
家臣の反対を押し切って唐津藩・実封25万石から
浜松藩・実封15万石に転封を願い出た殿さまです
願いは叶い大阪城代、京都所司代、老中首座と
出世街道を上りつめて改革に着手しました。
 
当時、アヘン戦争で清が英国に敗れ、異国船が日本近海
に出没して海防を脅かすなど改革が急務でした


 70099cdf.jpeg
 
そんな浜松藩を通って清水次郎長一行は、三州藤川(岡崎)
に辿り着きました。
藤川に着いた時には、三人とも懐にびた一文もなく、
この辺の侠客の親分に世話になろう」と決めて
宿場人足のたまり場に行ったそうです。
 
この辺の侠客でえらいのは誰かね
そりゃ一番は吉良の武一 肝っ玉が大きく剣術の達人
いやいや、寺津に今天狗といわれ、武勇並はずれて
日の出の勢いの親分がいますよ

 
風貌を聞いたら「そりゃ 治助ずら」と顔が浮かびました。
昔、清水次郎長の家に厄介になったことのある男でした。
 
そんな縁で、清水次郎長は寺津治助親分のところで
厄介になりながら侠客の修行をすることになりました


 DSC_0846.jpg
 
寺津は、西尾市にある漁師町です
岡崎市から矢作川を下っていくと西尾市があります。
西尾市の特産といえば、清水と同じお茶です
お茶の歴史を紐解くと、偶然にも共通するところがありました。
 


 
DSC_0049.JPG

西尾市内に入ると先ず目にする看板です
抹茶の原料となるてん茶が主で全国生産量の
約20%を占めています


 763b5aa0.JPG
 
西尾茶の特徴は、深い緑、上品な香り、穏やかな
うまみとコクがある所です
春の摘み取りの前には、黒いシートを広げて
直射日光を当てないようにします
そうする事によって新芽が柔らかくなるそうです


 
DSC_0054.JPG
 
茶畑を過ぎると、今度はお茶屋さんが道の両側に
並んでいます
ここは、「お茶街道」と言いたくなるぐらいです。



823c37bf.JPG
 
店の裏にも茶畑がありました。
寺院の境内まで茶畑が続いています
このあたりの土は、水はけが良くて栽培に適している
そうです
西尾の友達が学校行事で茶摘みがあるよ!なんて言って
いたのを思い出しました


 
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この寺院の門柱に「茶祖之寺 紅樹寺」と
書いてありました。
ここにお茶街道のルーツがありそうなので
拝観してみることに・・・・


 
DSC_0059.JPG
 
三十三観音が整然と並んで祀られています



 DSC_0061.JPG
 
ここは浄土宗の寺院で、徳川家康の伯母・常在院殿
の菩提を弔うために建てられました
明治になって西尾茶を再興させるため足立順道住職が
宇治より茶種を持ち帰り、境内の荒れた土地を開墾して
茶園を開きました
その後、製茶技術を導入して近隣の農家に茶栽培を
奨励して、お茶の町・西尾の基石となったそうです。
 
寺の役目は先祖の供養をするだけではないですね!
有名な高崎のダルマ市も少林山の和尚が、地域の
発展の為に考案して地元農家に製作を勧めたのが
始まりだそうです。



 


 DSC_0065.JPG
 
住職が宇治から持ち帰った茶の原樹です。
西尾茶は、今から800年前に京都・東福寺開山
聖一国師が西尾・実相寺の開山となり境内に
から持ち帰った茶の種子を蒔いたのが始まりです。


 
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実相寺は紅樹寺の近くにあります。
二つの寺の歴史の中で茶畑が広がり、
お茶屋さんが軒を並べているのですね
開山聖一国師静岡の生まれで、若い時に
久能寺で修行したそうです。

そして、静岡茶もから持ち帰った茶の種子
蒔いたのが始まりといわれています。
 
清水次郎長は、偶然にも侠客の修行に入った場所が
お茶に縁のある町だったのです。
後に次郎長も静岡茶の発展に寄与しましたから
不思議な御縁がありますね!
 
 
次は、西尾の茶文化を探りながら実相寺に行ってみます♪



久能寺についてはコチラ↓

 いい寺・久能山東照宮(1)
 e-tera.net/Entry/174/


※お茶の町清水についてはコチラ↓

 清水を見下ろす日本平
 e-tera.net/Entry/173/
 

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